「ヴラジミルにおける教会外壁レリーフと二重信仰の関連性」研究調査報告書

平成20年度文部科学省「大学教育の国際化加速プログラム」採択
龍谷大学「長期海外留学支援プログラム」採択

龍谷大学大学院国際文化学研究科
川村明海

報告者は、2008年9月から2010年8月までの2年間をロシアにあるモスクワ国立大学アジア・アフリカ学院に留学した。実際には、より自分の専門分野に近い、モスクワ国立大学歴史学部で多くを学んだ。この留学は研究および博士論文に必要な文献や写真データなどの資料を収集に重点を置くものであった。2008年9月から始まる前期では論文の読み書きを訓練するために、文献学部で学ぶ機会を与えられた。さらに 歴史学部で建築史および美術史を基本とする専門科目を履修することもできた。2008年9月からの1年間、1週間当たり90分授業を17コマ履修することになり、内容的にも時間的にも厳しい日々であったが、研究をする上で大変有意義な時間であった。ゼミでは、アレクサンドル・セルゲービッチ・プレオブラジェンスキー氏に個人指導をいただいた。そのほか研究を進める上で必要なロシア語専門書のために家庭教師を雇い、授業を受けた。2009年9月以降はこの家庭教師との勉強が中心となり、週3日の間隔で行われた。この報告は、報告者がどのような研究生活を送ったかについて述べるにとどめ、研究および博士論文の詳細については年度内に別途報告する。

モスクワ国立大学

資料収集

文献資料は最初に指導教官からリストをもらい、収集方法は、主にレーニン国立図書館での検索を行った。レーニン図書館では、電子検索システムは新しい雑誌にのみ対応しており、一般には図書カードを探し出して、カードで書籍コードを特定しなければならない。通常は書籍の貸出予約を提出してから半日後、もしくは翌日に受け取ることが出来る。レーニン図書館のコピー料金は非常に高く、1ページにつき5ルーブル(当時の為替レートは約1ルーブル3円)であった。さらに、1945年以前の書籍のコピーは1ページにつき15ルーブルもかかった。コピーは自分で行なうことができない。そのため長時間待たされることもあった。参考程度の場合には、手書きで写した。

指導教官から渡されたリストは非常に役立った。特に、N・ヴォロニンの著書は考古学、歴史学、建築学など、多角的な検証が行われていた。報告者の博士論文はこのN・ヴォロニンの先行研究を多く引用している。しかし、この研究著書を読み解くことは非常に困難であった。その理由は、報告者は、それまでに研究のためのロシア語の訓練、特に読み書きを行ってこなかったからである。さらに、10世紀から14世紀の歴史を知るということは、スラヴ語年代記を読むことを必須とする。スラヴ語は、以前に他大学や研究会で勉強させて頂いたが、当時の能力では不十分であった。

計画段階では現地調査に多くの時間を費やす予定であったが、文献収集、読解に多くの時間を割かなければならなかった。そのため、広範囲のフィールドに度々動くことは難しかった。従って、当初の計画を変更し、以下の地域に的を絞って現地調査を行った。訪れた場所はヴラジミル、スズダリ、ボゴリューボボ、セルギエフ・パッサート、ドミトリ、キエフ(ウクライナ)である。準備調査ではエクスカーションを利用することもあったが、国立ロシア文系大学(РГГУ)教授アナスタシア・バンチャエヴァ女史は各方面の専門家を用意してくれた。

歴史学部の授業では、四大文明美術史、ロシア建築史、キリスト教会史などを受講した。授業にはカメラを持ち込むことが可能で、先生がプロジェクターで映す場合には撮影し、授業ノートを作成した。

戦勝記念日 ロシア文系国立大学のアナスタシア・バンチャエヴァ教授とその家族とともに。

投稿論文

2009年5月(2009年11月出版)と2010年5月(2010年秋出版予定)の2回に渡って、報告者はアナスタシア・バンチャエヴァ女史の紹介で雑誌に投稿する機会を得た。2009年度版では、「二重信仰と教会外壁レリーフ」という題で、日本ではこの分野の研究者がいないことを指摘しつつ、報告者の関心と、研究方針を報告した。2010年度版では、「建築史とウラジミルの装飾」という題で、都市形成の3段階、ウラジミルの火災とレリーフのテーマの関係性を述べた。どちらも小さな研究ノートであるが、ロシア語かつ審査のある研究雑誌に掲載されたことの喜びと、ロシアで日本人大学院生カワムラアケミが何に関心を持っているかを知ってもらう一歩になったのではなかろうか。この経験は、研究を志す者として大きな自信となった。

治安

2008年から2009年1月の間はモスクワ市の治安が急速に悪化した。特にモスクワ国立大学周辺、プーシキン人文大学の周辺で、1ヶ月に30人以上の学生が死傷した。その情報は、大使館よりも先に、大学のコミュニティーを介して得られた。大学コミュニティーには中国人コミュニティー、台湾人コミュニティー、ロシア語圏コミュニティーなどとあるのだが、報告者はいずれのコミュニティーからも情報を得ていた。他の留学生とは異なり、元々単身で留学した報告者は、当然のことながら、自分自身で身の安全を確保しなければならなかった対処方法としては、夜遅くなるような予定があるときは、同行者に車で送ってもらうなどの手段をとった。

2010年3月29日には市内2箇所で地下鉄が爆破された。爆破現場は、正に普段通っている通学路の途中地点であった。この時も、やはり現地のロシア人が一報をくれた。この事件によって、精神的なストレスが報告者に強くのしかかった。そのため通常の通学路とは別に、利用可能な迂回路を開拓した。しかしながら、普段利用していた地下鉄のみならずバスの利用も危険には違いがなく、私を安心させてくれたものはやはり情報であった。そして、このとき報告者を含めたモスクワ在住の人々は冷静でいることを求められたように思う。当時日本では特番を組んでの報道もあったそうだが、モスクワ在住の人々にとって地下鉄の話題は居心地の悪いものであった。あるロシア人の「日本にとっての今回の地下鉄爆破は劇場の芝居と同じだ」という言葉が印象に残っている。

大学の非常勤講師

ロシアでは博士課程の大学院生は働かなければならない。しかし、報告者は研究に専念するために、仕事はしないことを決めていた。ところが、2008年10月にはロシア人の友人の強い勧めで、半ば強制的に日本語の家庭教師をすることになった。ロシアの大学院生と同じように生活し、同じように研究することが必要だと思われたからである。「郷に入れば郷に従え」という言葉もあるようにロシア人と同じように生活をし、同じように研究生活をすることで、ロシア文化をより深く実践的に理解しようとした。さらに、日本文化を伝えるということも、国際文化学のひとつの在り方であると考え、実践に移した。その後、その友人を介して、2009年1月よりモスクワ国立教育大学で書道を教えることになった。さらに、2010年1月からは政府管轄国立大学高等経済学院で日本語の非常勤講師として勤務した。大学での講師経験は、今後教育現場で仕事をしたいと考えている報告者には価値ある体験であった。

モスクワ国立大学地理学部 日本語の授業風景

国際文化という価値観

報告者は、ロシア人に対して自分の立場を伝える際には文化学者、特には歴史学者と称しなければならなかった。「国際文化」という日本語を無理矢理ロシア語に訳してみても、ロシア人たちに理解してもらうには程遠かった。国際文化学部は社会学、政治学、言語学、文学などを総合的に勉強できる学部である。彼らに学部紹介をする際、報告者のように歴史、宗教、建築など複合的に検討すべき分野がある場合には、最適な学部であることを説明した。報告者は龍谷大学国際文化学部を卒業し、さらに同大学大学院国際文化学研究科に在籍していたおかげで、ロシアに限らず各国の政治学部、文献学部、地理学部などに所属する学生たちと討論をすることができた。国際文化学部のカリキュラムの中で報告者ら学生は、広い基礎知識、考える訓練を受けてきた。各国の学生と討論する場合、それぞれの国の基本的な国情を知っておくことは、相手の考え方や言動を理解する上で必要不可欠だったと考える。国際文化学の確立は、国際文化学部第1期生としての役割である。このように、留学期間中に研究とは別に、国際文化学的実践を試みえたことは有益であった。

最後に、この留学には多くの方々にご支援、ご尽力いただいた。龍谷大学の諸先生方、事務の方々には2年間の留学の機会を与えて頂いた。ことに、龍谷大学国際文化学部教務課課長北條英明氏、阿部俊彦氏には文部科学省への申請からこの報告に至るまで一貫して支えていただいた。指導教官の松原廣志先生には辛抱強く報告者の留学を見守って下った。感謝とともに、お礼申し上げたい。

このページのトップへ戻る